多様性と境界に関する対話と表現の研究所

アートカウンシル東京

【開催報告】「JOURNAL 東京迂回路研究 3」発行記念イベント:生き抜くための“迂回路”をめぐって 第2部

2017年03月29日

2017年3月17日、「JOURNAL 東京迂回路研究 3」発行記念イベント:生き抜くための“迂回路”をめぐって」を実施しました。

今回のプログラムは下記のとおり。
【第1部】ジェスチャーかるた大会 《18:00〜19:00》
【第2部】トークセッション「迂回路をつくるということ」《19:00〜21:00》

ここでは、第2部トークセッション「迂回路をつくるということ」について、ご報告いたします。第1部のレポートは、こちら

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東京迂回路研究では、今年度1年間をかけて、「迂回路をつくるということ」について考え、実践してきました。「迂回路」とは、人が生きるなかで言いようのない困難や生きづらさに突き当たったとき、それでも、既存の枠組みや境界をずらしながら、歩きぬくことができるような道のこと。人と人との関わりのなかで多様な人々が「こうもありえる」というありよう=「迂回路」を、それぞれの立場から見つけ、共有することで、さらに新たな「迂回路」が立ち現れてくるような活動を目指しました。今回発行した「JOURNAL 東京迂回路研究 3」では、活動を通じて感じ、考えてきたことをまとめています。

今回の発行記念イベントでは、ジャーナルの一端を体験いただくべく、活動のなかで出会った方々をゲストにお迎えし、あらためて「迂回路をつくるということ」について話し合う場を設けました。ゲストは、新澤克憲さん(ハーモニー)、鈴木励滋さん(地域作業所カプカプ)、小川貞子さん(caféここいま)。進行役は、アサダワタルさん(事編kotoami主宰)、三宅博子(多様性と境界に関する対話と表現の研究所)。いわゆる「福祉」や「医療」などの領域にとどまらない、広い意味でのケアの現場の実践を手がかりに、参加者それぞれの考える「迂回路」について話し合いました。

当日の参加者は25名。まず、それぞれのゲストから、活動現場をご紹介いただきました。精神障害のある人が通う場であるハーモニー、café ここいま。知的障害のある人が通う地域作業所、カプカプ。食事、語らい、仕事、遊び、行事など、その人たちと過ごす日常の様々な取り組みが、地域の人々とのつながりをも生みだす様子が語られました。

場づくりの背景
そのような場をつくるに至ったきっかけや背景を掘り下げることから、5人でのトークへ。
もともと障害福祉に興味があったわけではないという鈴木さん。大学時代の恩師・栗原彬さんの縁で、地域作業所の立ち上げから携わることに。「カプカプに通うメンバーのことをすごく面白いと思っているが、今の世の中の尺度はそうなっていない。障害福祉の現場では、“問題行動”を訓練によって“スタンダード”に近づけようとするが、それは単線的な生き方の価値観に従わせること。もっと多様な評価の仕組みがあってもいいし、ないのなら、作ってしまえばいい」。

精神科病棟の看護師として長年勤めてきた小川さん。長期入院中の患者さんが実名で自分自身のことを語る写真展を開催したことが、caféここいま開設のきっかけに。「写真展が終わったら私は自宅に帰るけれど、スーツを着て語る患者さんが帰るのは、病院のベッド。これでいいの? と自問自答し、まちに居場所を作るためにcafé を開いた」。

障害者関連の仕事をやめて木工家具の職人を目指していた新澤さん。ハーモニーの施設長として声がかかったとき、精神科病院の前で一日過ごしてみて、患者さんたちと「気が合うかも」と感じ、入職。「精神の病気を得ると、いろんなものを失う。仕事、家族、お金、全てが失われ、社会での居場所がなくなる。精神障害のある人を地域で応援していくことは、その人がいられる場所を作っていくことだと思う」。

当事者性から、どう価値観をひろげるか
その人がその人として、そこにいられる場所を作ること。それは、誰かのために「してあげる」のではなく、自分自身のためでもあるからこそ、続けられるのではないか。アサダさんの投げかけから、何らかの活動をするうえで「迂回路」を考え、見つけざるを得ない「自分のなかの当事者性」へと、話が進んでいきました。

「場を作っていくにあたっては『自分もその場の一員として、同じ目の高さでいる』ことが大事だと思う。すると、たとえば介護職員という当事者性を考えることもできる。“健常者”という立場の当事者が、何か新しい場所を考えていくという広がりかたもあっていい」(参加者)。

「たしかに、マジョリティの側にいる人々にもマイノリティ性があるし、まだ言葉になっていない当事者性や、場や関係のなかで揺らぎ、変化する当事者性もある」(三宅)

一方、「当事者といえば、みんな当事者。『みんな違ってみんないい』はずなのに、実際の世の中はそうなっていない。自分は働いて収入を得ているのに、そこに通う障害のある人の面白さは評価されないという、圧倒的な不均衡がある」(鈴木さん)

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「当事者」という言葉には、社会で何らかの不利益を被っている人の存在が前提にあります。しかし、その人の「面白さ」「すごさ」に目を向けるとき、たんに病気や障害の当事者という言葉では言い切れない見方をしているように思います。それは一体どういうものなのでしょうか。

「言葉としての『障害』というのは境界線としてあるのだけど、それをどんどん無化していく。『あなたとわたしは、同じだよ』というカードをできるだけたくさん切り続け、あなたとわたしの差はどこにあるのという問いかけを常に続けていく。それで、最終的に統合失調症という言葉だけが空間にポツンと残ってしまうようなアプローチが出来ないかと、常に考えている」(新澤さん)

「違っていることで排除することにならないというのを、理屈ではなく実感してもらうことが必要。喫茶カプカプという舞台で、メンバーは地域の人に向けてパフォーマンスしている。スタッフは、メンバーと地域の人の間に入って、メンバーが輝く演出をする。ダメな部分を直すのではなくて、ダメなものをダメなままでもよいと成り立たせるためにどう演出していくか」(鈴木さん)

「問題行動と言われるものに対する、まちの人の反応は、(病院とは)けっこう違う。命に関わるほどたばこを吸う人に『わかる! 私も40本吸ってた。でも心臓にバイパス作って、すっぱりやめたんや』と話す人がいて、『そうなの』と話を聞いて、場が静まっていったりとか。誰にでもある、まちのどこかで起きている、そういうことが共有されると『しかたないなあ』となる。しばらくすると、ほとぼりが冷めて、いい関係でまた出会える」(小川さん)

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場に関係をひらく
違いを認めるために価値観をひろげることの重要性について、参加者から「頭では分かっていても、日常生活を共にしていると、肌が合わないと感じる人にも出会う。そういう場合に無理してつなげるのは、限界があるのではないか」という問いかけがありました。
それに対し出てきたのが、「場の力」や「関係をひらく」というキーワード。

「たとえば、喫茶店のお客さんで延々と人生を語る人がいて、新人のスタッフはずっと聞いてしまう。そういう場合、別のお客さんとの共通項を見つけて、そちらにつなぐことにしている。関係が煮詰まると許せなくなるところを、誰か別の人が入ってくれれば、緩めることができる。自分一人で抱え込まないで、つなげる相手をたくさん持っておき、的確につなぐ」(鈴木さん)

「アパート暮らしのメンバーが夜中に大音量で音楽をかけて、近隣から苦情が来る。いろんな人が関わって話を聞くんだけど、最終的に全然関係ない、斜め下に住んでいるおばあさんが相談相手になって、住民どうしで解消したりしている。誰がキーパーソンになるかわからないから、『その人をみんなで見ている』のが大事」(新澤さん)

「チームでやっていると、チームにとって相性の悪い人っている。チームのなかで誰もその人のことを純粋に愛せなくなる状況が起きる。ある時、看護チームがそうなったから、まちのボランティアチームに入ってもらった。その人たちには『困難な患者さん』という意識がないから、とてもいい関係を作っていた。チームで限界を感じるときには、チームのメンバーを入れ替えるだけじゃなくて、他のグループの人に入ってもらう」(小川さん)
 
さらに、場を生きたものにするために、地域などの「横のつながり」を作るだけでなく、そこに通っていた人々の記憶や記録など「縦のつながり」を切らないことの大切さについても、語られました。

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それぞれの「迂回路」
 最後に、それぞれがそれぞれの立場から「迂回路をつくるということ」というテーマに立ち戻りました。アサダさんが、次のようにまとめてくださいました。

「迂回路をつくるというときに、今ある状況をがらっと抜け出してつくるやり方と、今置かれている状況にとどまりながら、意識のなかでその場を変えていこうとするやり方がある。社会を変えるためにどちらがよいというわけではなく、自分がいる立場のなかでそれぞれがやれる『迂回路』をつくるという発想に立つことの方が大きい革命だと思う。今、何を持ち帰って、ちょっとずつそれを埋め込んでいけるかということのほうが、じつは難しい。そういうことを考えるのに、この場の意義があるのかなと思います」(アサダさん)

そう考えると、「迂回路をつくる」とは、必ずしも何か大きな実践のことではなく、日常のささやかなことのなかに埋め込まれているように思います。今何を食べるか、今どんな言葉を発するか、今どのように振る舞うか。
すると参加者から、次のような言葉がありました。

「それは、自分をひらくことではないか」(参加者)。

自分へ向けて、自分をひらくこと。それは、自分ひとりではできなくて、誰かと共にいるからこそ、できること。「東京迂回路研究」が追求してきたのは、このことだったのではないかと思います。誰かと言葉を交わし、言葉をつむぐ場を、これからも何かの形で作っていきたいと思いました。

ご来場くださった皆さま、ゲストの皆さま、ありがとうございました。

(三宅博子)