多様性と境界に関する対話と表現の研究所

アートカウンシル東京

【週報】「ささやかさ」に目を向けること:藝大音環の卒展に参加して

2017年03月15日

こんにちは、研究所員の石橋鼓太郎です。
三寒四温の日々が続いていますね。

さて、先月の初め、2月10日から12日にかけて、私が現在通っている東京芸術大学千住キャンパスにて、「東京藝術大学音楽環境創造科/大学院 音楽音響創造・芸術環境創造 卒業制作・論文/修了制作・論文発表会」が実施されました。
展示・コンサート・音響作品・映像作品など、さまざまな形態の卒業・修了作品と、卒業・修了論文が、キャンパス内のあらゆる教室で発表されました。

その中で、印象的だったのが、いくつかの作品や論文の中に、何か共通するような問題意識が見えてきたことです。
例えば、松浦知也さんの《送れ | 遅れ / post | past》は、記憶や記録という行為の曖昧性や流動性に着目し、情報が空間の中を流れ続けることで結果的にその「記録」がおこなわれるようなシステムが組まれた作品でした。
また、渡辺千加さんの作品《Player》では、「おもちゃ楽器」という楽器と玩具の間にあるものを使って、コンサートと遊び、演奏者と鑑賞者の境界を曖昧にすることが目指されていました。
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あるいは、前田菜々美さんの《ケに介入しうごめいて、ケに完結する日々のこと》では、個人の創造性がみんなで集まる「ハレ」の時間に集約されてしまうことへの疑問から、個人的な「ケ」の時間に始まり「ケ」の時間に終わるような実践とその言語化が試みられていました。

他にも面白い作品や論文がたくさんあったのですが、紹介はこのくらいにして…
その多くに共通するように感じられたのは、強固な全体性に対峙するために、その外部に別の強固なものを打ち立てるのではなくて、そのミクロな内部における断片性・曖昧性・流動性・瞬間性などに着目し、そこから全体を浸食していくようなことを試みた実践であったということです。つまり、ある社会や共同体のあり方をセンセーショナルに糾弾するのではなく、個人の実感にもとづいた小さくもやもやとしたもの・ことを丁寧に拾い上げ、それを作品や論文といった形に落とし込んで他者に伝えていくようなものが多かったように感じられたのです。それは、「ささやかさ」に目を向けること、と言い換えることもできます。

翻って考えてみると、このような態度は、今年度の東京迂回路研究の考え方にも共通する部分があるように感じられます。今年度、東京迂回路研究では、「迂回路」という言葉を次のように捉えなおしました。

「迂回路」とは、行き止まりに突き当たった人々が脇に逸れて新たに開拓する道なのではなく、日常の中における自分と他者の関係、そして自分と自分の関係が変わることで、他者との間に立ち現れてくるような道なのではないか(本年度事業概要文より)

自らの実感に基づいた、分かりにくくもやもやとした「ささやかさ」に目を向けること。そしてそれを丁寧に拾い上げ、形にし、他者に伝えること。それは、もしかすると、制作者それぞれにとっての「迂回路」の探求であるとも言えるのかもしれません。今回の卒業制作展では、そのことの大切さと切実さが、筆者と同年代の人々の間でそれとなく共有されつつあるのだ、という希望を感じることができました。

(石橋鼓太郎)