多様性と境界に関する対話と表現の研究所

アートカウンシル東京

【週報】『わかりあえない』から『観劇』する

2017年01月04日

あけましておめでとうございます。年末年始、いろいろな過ごされ方があったかと思いますが、ゆっくりできましたでしょうか。さて、去る2016年にダイバージョンでは、「わかりあえないこと」を出発点に様々な模索を行った年でもありましたので、「わかりあえないこと」を僕の個人的な立場である「会計」と「演劇」からも年末年始に少し考えてみました。

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(年末年始お世話になっているみかんです。)

まず、会計は事実を数字で捉え、整理し、測定するおそらく世の中で最も広範に利用されている評価ツールです。その評価の前提は測定可能な事実であり、プライスレスな体験や共感は評価対象とはしません。会計に限らず、評価の前提には尺度があり、より多くの人と共有したければ尺度を単純にすればよいけれど、すると画一的な尺度には収まらないものごと、又は人がその認識対象から外れてしまいます。「わかりあえない」とは、お互いの間に共通の尺度が見当たらない、もしくは見つける気がない状態とも言い換えることができるかもしれません。

一方で、観劇体験というものは良くも悪くも腑に落ちないことが多い、つまり簡単に判断・評価できないことが多いです。他人がこうだ、と言っていても、それに対してそのままその通りだ、と言えることの方が少ないかもしれません。個人的な一意見として述べると、その評価の難しさに対する理由の一つには、演劇に接することの生々しさがあると思います。生々しいので、その接触には生理的反応がおこる。生理的反応に対して統一的な尺度を設定することが困難なように、演劇の評価軸を設定することは簡単ではないのだと個人的に思っています。そして、人と作品が不可分である演劇の性質がその生々しさの理由となっているように思います。同時に、その生々しさが演劇の魅力にもなり得ているのだとも思います。

演劇に対峙した際の生々しさに対する措置として、僕はその作家及びその作品に「どう個人的に接せられるか」を、生々しさを頼りに想像するという手段をとることがあります。第三者的に、客観的に考えるというよりは、ごく身近なものとして接してみます。そうすると、他の誰の意見も気にしなくてよいですし、生々しいので想像は比較的し易く、また楽しいのです。と、ここまで思い返してみて、会計もその数字の先にいる人にどう接することができるのかを考えるのが本筋であるはずだよなとも思い至ります。表層は数字の羅列でこそあれ、その裏には生々しさが実は同居しています。言えるのは、生々しさへの対峙にあたり会計は演劇よりもルール及び尺度がはっきりしており、極端に言うとわかりたければわかるし、わからないものはどうしたってわからないという点です。

「『わかりあえない』という言葉の裏には、(わかりあいたい、でも)というカッコ書きが前提にあると思う」と、もやもやフィールドワークでとある参加者がおっしゃっていました。
「わかりあえない」と認識をしたとき、つまり対峙したけれど共通の尺度が見当たらないとき、相手のふるまいや言動には、どんな面白いところ、素敵なところ、興味をひくところがあるかなと探すことは、案外、観劇時にその魅力を発見することと共通する点があるのかもしれません。

というわけで今後、コミュニケーション及び観劇でうまくいかないことがあったら、観劇を楽しむように人と接し、人と接するように観劇をしてみるのも手かもしれないなと思いました。

冗長かつ、直接は活動と関係のない内容で恐れ入りますが、今年もどうぞ、変わらずよろしくお願いいたします。

(五藤 真)