多様性と境界に関する対話と表現の研究所

アートカウンシル東京

【週報】存在の仕方としての「声」

2017年01月30日

厳しい寒さが続いておりますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

さて、Facebookでもお知らせをさせていただきましたが、1月21日(土)の朝日新聞朝刊にて、昨年発行した「JOURNAL東京迂回路研究2」より、写真家・齋藤陽道さんのことばをご紹介いただきました。哲学者・鷲田清一さんにより連載中の「折々のことば」というコーナーです。

「ただ存在すること。そのこと自体がもうすでに声なんだ、ということを信じたいんです。」

このことばは、2015年9月4日~6日に開催したフォーラム「対話は可能か?」の最終日・6日に、齋藤さんと本研究所代表の長津との筆談対談「まるっきり違うのにそれでも似るもの:迂回路をめぐって」のなかで生まれたもの。

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50名ほどの観客の前で、静寂の中、書画カメラに対談の様子が映されている。そんな環境で対談が続く中、齋藤さんが書かれたのは、次のような言葉でした。

「こうして対談をするということ(略)言葉が直に、届かないという思いは常にあり」、「言葉ではなくみつめあうことで、伝わるもの、それを声と呼びたい。(略)音声だけが『声』としてしまうと、それではあまりにもきゅうくつで。写真をとおして、他者のまなざしとぶつかりあうことで、言葉もなくこころになだれこんでくるものがあるなと知るようになり、『ただ見つめあうこと』『ただ存在すること』そのこと自体がもうすでに声なんだ、ということを信じたいんです。」

齋藤さんの写真をみていると、その被写体となる人・動物・ものが、ささやかな、しかし切実な「何か」を発していて、異なるものどうしの「何か」が一瞬だけ重なる瞬間が捉えられているように感じられることがあります。それはきっと、その「存在の仕方」のようなものであり、それによって他者に触れ、他者と重なる「何か」を、齋藤さんは「声」と呼んでいるのではないかと思います。

異なるものが、異なるままに、共に在ること。そのための「対話」の作法として、「言葉」を交わし合うだけでなく、「存在の仕方」としての「声」に耳を傾けるということの大切さを、改めて強く実感することになった時間でした。

「JOURNAL東京迂回路研究2」は、こちらから全文PDFでご覧いただけます。

また、今年度末に発行予定の「JOURNAL東京迂回路研究3」もただいま編集中で、今回も齋藤陽道さんの写真を巻頭に掲載する予定です。こちらもぜひ楽しみにお待ちください!

(石橋鼓太郎)