多様性と境界に関する対話と表現の研究所

アートカウンシル東京

【連載】「東京迂回路研究 オープンラボ」を振り返る――スライドショー&ライブ「詩・写真・声ーここから言葉をつむぐということ」②

2016年12月20日

10月26日〜30日に開催した 「東京迂回路研究 オープンラボ」の振り返り連載。
第10回目は、<スライドショー&ライブ「詩・写真・声ーここから言葉をつむぐということ」>について、研究所メンバー石橋によるレポートです。
*本連載は、オープンラボを多様な視点から振り返るべく、各プログラムについて研究所メンバーと参加者それぞれのレポートを交互に掲載していきます。
各プログラムはそれぞれにどのように経験されていたのか。あの場に身をおいた人は何を感じ、思考したのか。お楽しみいただければ幸いです。


■声と言葉、その多層性と断片性

石橋鼓太郎(多様性と境界に関する対話と表現の研究所)

 

「言葉」は、いつ、どのように紡がれるものなのだろうか。それは、「声」によって、どのように他者に伝えられるのだろうか。

東京迂回路研究オープンラボ3日目、10月29日。17時より、SHIBAURA HOUSE 5階バードルームにて、『スライドショー&ライブ「詩・写真・声ーここから言葉をつむぐということ」が実施された。このプログラムは、同会場内3階にて15時よりおこなわれていた、『ワークショップ「こころのたねとして:齋藤陽道さんの写真から@東京迂回路研究」』の内容を受けたもの。「こころのたねとして」は、詩人の上田假奈代さんにより全国各地で実施されている、参加者同士がインタビューしあい詩をつくりあうワークショップ手法である。今回は、写真家の齋藤陽道さんの写真を見て、そこから想起されたことについて参加者同士がペアを組んでインタビューしあい、詩を創作した。そして、ここで報告する『スライドショー&ライブ』では、できた詩をもとに、前半はワークショップ参加者による朗読、後半は声のアーティスト・山崎阿弥さんによるパフォーマンスがおこなわれた。

 

会場は、ステージがなく平らな四角形で、一面が壁になっており、他の三面にはカーテンがひかれている。観客は、その真ん中のあたりの地べたに座る。冒頭のあいさつが終わり、会場が暗くなる。写真が壁面に投影されると、二人ずつ客席から前方に現れ、ちょうど写真の中に入り込むような形で、椅子に座る。この二人は、ワークショップの参加者で、写真を選びインタビューを受けた方と、そのインタビューをもとに詩をつくった方とのペアである。中には、同じ写真を選んだペアもいた。そして、詩の作者が朗読をする。じっと動かずに、静かな調子で読む人、身振りなどを含めて、抑揚をつけて読む人、誰かに語りかけるような調子で読む人…。朗読の調子は、朗読者によってさまざまであった。また、興味深かったのが、朗読者の視線である。原稿からずっと目を離さない人もいれば、ちらりと投影された写真に目をやったり、常に観客の方を向いていたり、あるいは、ペアの相手に語りかけるような目線を送っている人もいた。前半は、このような一連の流れが、入れ代わり立ち代わり参加者の数だけ、繰り返された。

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(写真:冨田了平)

もとになった写真のモチーフは、人、動物、もの、そして何かはっきりとわからないものまで、多岐にわたる。そこには、被写体が発している「何か」と、それに何かを感じ取った撮影者の齋藤陽道さんの視点が入り込んでいる。『ワークショップ「こころのたねとして:齋藤陽道さんの写真から@東京迂回路研究」』で、参加者は、30枚ほどある写真のなかから、自分が特に何かを感じた一枚を選んだ。それは、被写体と撮影者が重なり合った写真という媒体に、さらに自分の体験や経験、考えなどと重ね合わせる作業である。そして、その写真を選んだ理由や、そこから感じたことを、インタビュアーに開陳した。インタビュアーは、その言葉を聞き、詩という形に落とし込んだ。つまり、できあがった詩には、被写体、撮影者、インタビュイー、インタビュアー(=詩の作者)がそれぞれに発する「何か」が、多層的な形で折り込まれている。そして、朗読のステージでは、いろいろな人々が発する「何か」の複雑な折り重なりを経由して、そのプロセスの中で最も遠いところにいる詩の作者と被写体が、再び出会う。距離が遠い二者が、目の前で直接的に出会っているからこそ、その間を隔てる複雑な「何か」の重なり合いに、観客は思いを馳せるのではないだろうか。

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(写真:冨田了平)

 

全員の朗読が終わった後、まるで朗読者のひとりであるかのように、声のアーティスト・山崎阿弥さんがふらりとステージに現れた。詩の原本を手にして、その中から断片的なフレーズを取り出してささやき、音響機器によってループさせる。言葉の断片の中にたゆたいながら、会場内を動き回り、言葉と鳴き声の中間のような声を発する。別の場面では、一つの詩を長く引用し、じっくりと読み上げる。かと思うと、会場のカーテンを開けて、芝浦の夜景に囲まれながら、じっと立ち止まり、会場の外から漏れ聞こえてくる音に耳を傾ける。その間、写真はランダムに移り変わっていく。やがて、声を発しながら、投影された写真に吸い込まれるように近づいていき、被写体に向かって手を掲げるような形で、演目は幕を閉じた。

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ワークショップの参加者によって紡がれ、朗読によって表現された、いろいろな人や物を重層的に経由した言葉。山崎さんのパフォーマンスと、全くランダムに投影される写真によって、それは、文脈から切り離された断片となっていく。さらにそこに、言葉になる前の声や、外界の音が組み込まれていく。意味が曖昧な断片どうしが、空間の中で響き合うことで、観客は、偶然その間に生じた関係性や無関係性に思いを馳せる。

人が「言葉」を発するとき、それを完全にその人一人で紡ぎあげることは、ほとんど不可能である。たいていの場合、いろいろなところで見聞きした言葉を編集し、さらにその場で聴いている人々の反応を即興的に取り入れて、「言葉」は変化していく。しかし、一方で、発せられている「声」は、間違いなくその人のものであり、そこにはその人の存在の仕方のようなものが込められている。それは、必ずしも誰かに伝えようという意図に基づくものではなく、自ずと発せられてしまい、伝わってしまうようなものである。「声」という言葉をそのように捉え直すと、それは必ずしも音声のみによるものではなく、その人のたたずまいやしぐさなどもその範疇に含まれてくるのではないだろうか。

このような考え方から、このプログラムで起こっていたことについて、もう一度振り返ってみたい。人や動物、ものが発する「声」を感じ取り、齋藤陽道さんがシャッターを押す。その写真が発する「声」を感じ取り、ワークショップの参加者は、写真を選ぶ。それを自分の体験と引き寄せながら「言葉」にし、インタビュアーはそれをさらに詩という形でまとめ、より洗練された「言葉」にしなおしていく。そして、詩の作者は、それをそれぞれの仕方で朗読することで、再び「声」に戻していく。その結果として生まれた詩の朗読という場では、詩の中に込められた複雑な「言葉」どうしの重なり合いが、そのプロセスの最初と最後にあたる写真と朗読という「声」どうしの共鳴によって、浮き彫りになってくる。山崎さんのパフォーマンスでは、そのような「言葉」の多層性が、「声」の多様なあり方を提示するようなパフォーマンスによって、断片的な「声」と「言葉」のあわいにあるようなものどうしの並置という形に組み直される。

このプログラムの中で起こっていたのは、写真と朗読、そして山崎さんのパフォーマンスという、人やものが発する「声」どうしが、さまざまな形で反響し、ぶつかり合い、響き合うことによって、逆説的に、「言葉」が本来持っている多層性や断片性を浮き彫りにするようなプロセスであったのではないだろうか。そしてそれは、「多様な人々が多様なままに生きる」ことと、「言葉を交わし、言葉をつむぐ」ことと間の、一つの豊かな関係性のありかたを提示しているように思えるのだ。