多様性と境界に関する対話と表現の研究所

アートカウンシル東京

【連載】「東京迂回路研究 オープンラボ」を振り返る――ワークショップ「こころのたねとして:齋藤陽道さんの写真から@東京迂回路研究」①

2016年12月20日

10月26日〜30日に開催した 「東京迂回路研究 オープンラボ」の振り返り連載。
第7回目は、<ワークショップ「こころのたねとして:齋藤陽道さんの写真から@東京迂回路研究」>について、中岡晃也さんによるレポートです。
*本連載は、オープンラボを多様な視点から振り返るべく、各プログラムについて研究所メンバーと参加者それぞれのレポートを交互に掲載していきます。

 


■こころのたねとして:齋藤陽道さんの写真からレポート

中岡 晃也(タイワビト 主宰)

参加することを決めた理由は挙げればキリがないが、一つ挙げるとすれば、「このワークショップの構造に関心を持ったから」であろう。これまでに多くのワークショップに参加してきたが、端的に言って、ワークショップはある種の「夢」だと言える。人は夢をみる。これ自体大したことではない。けれども、人はときにある種の「夢」をみて、希望や悲しみを体験し、無意識に沈めていた自分自身と出会う。そうして、二重の意味で人は目覚め、一日を開始する。優れたワークショップは参加者にすべからくこうした「覚醒の夢」をみせる。

人は「夢」を意図的にみることができない。一方で、ワークショップはどんなに控えめに言っても人為的な創作物である。それは、一つの特殊な自然現象である「覚醒の夢」を意図的に発生させようとする装置とも言える。
それゆえ、ワークショップの作り手は意識的か無意識的かにかかわらず、ワークショップを作り上げる際に合目的的な構造を作り出す。構造は、さまざまな構成素(例えば、場所、時間、プログラム、机や椅子などのファシリティの配置)から成り立っており、それらの構成素がワークショップのねらいに合わせて適切な機序で組み立てられる。無論「参加者」も一つの構成素であるがゆえ、どんなに作り手が作り込もうと不確実性が入り込む隙を持つが、優れた作り手はこの不確実性を巧みに―「覚醒の夢」の必要不可欠な素として―活用する。

shibaura1029-08_2513(写真:冨田了平)

わたしは、本ワークショップのWebページの案内から優れたワークショップ特有の雰囲気を感じたのだろう。詩人上田假奈代さんによる、参加者同士がインタビューをしあい、詩をつくるという詩の創作ワークショップ。齋藤陽道さんの写真から想い起こされることに耳を傾けあい、そこから、詩をつくり、最後に朗読する。直感的に「覚醒の夢」をみせる可能性を感じたわたしはすぐさま申し込みを行い、2016年10月29日、SHIBAURA HOUSEで行われた『ワークショップ「こころのたねとして:齋藤陽道さんの写真から@東京迂回路研究」』に参加した。本稿は、その参加体験レポートである。

ワークショップの実際の手順を、ここで紹介しておく。

1.ウォーミングアップ。開始時間になると、主催の方々の導入の後、一人ひとり、自分が今日呼ばれたい名前を身体で表現し、その表現を参加者全員(ファシリテーターである上田假奈代さんも含め)で一度反復する。
2.上田さんからワークショップの流れの説明を受け、その後、数十枚の齋藤陽道さんの写真を眺めていきながら、一人一枚の写真を選ぶ。
3. 二人一組になって、自分たちの都合のよい場所に移動して、お互いの写真について話を聞いていく(交代で8-10分程度ずつ)
4.聞いた内容を、詩の形にする(15-20分くらい)
5.全体で再び集まり、ペアになった相手に向かって、できた詩を朗読する。

ここからは、わたしの体験に即して書いていく。
ウォーミングアップを終え、まず、わたしは写真の選択に難航した。どういった観点で写真を選べばいいか、わからなかったからだ。「写真選び」→「インタビュー」→「詩を書く(書かれる)」という一連の活動があることは把握しているが、詩を普段書いているわけではないので「詩を書く」という最終的な創作活動のイメージが弱く、詩の創作に向けて、このとき、どのような基準で写真を選べばいいのかがわからなかったのだ。机の上に茫漠と並べられている写真たち。いくつかの候補を見つけ、どれにしようか悩む、というよりは、そもそも、何をどう、数十枚の写真一枚一枚に視線を向ければいいのかがわからなかった。けれども、選ばなければならない。決断の時が近づく。

shibaura1029-16_2534(写真:冨田了平)

わたしは、基準という観念をまず持とうとする態度そのものを一旦やめ、儘に写真に眼差しを向けていく。理由はなく魅かれる写真を探す。自ずと見つかった1枚は、他の参加者の方々が選んだ写真とはもちろん違っていたが、少なからず「この写真」を選んだ方は他にもいたことがわかった。人はそれぞれ違っている、というのは当たり前と言えば当たり前だが、実際に違うということを目の当たりにするときはいつも好奇心をくすぐる。そして、同時に、その中でも同じ写真を選んだ方がいたというのは何か運命めいたものを感じる。その後のペアづくりで、偶然にも同じ写真を選んだ方とペアになる。

そして、これまた「聴く」のも困難であった。相手が写真について語ることから詩を書いていくわけだが、そもそも詩を書く上でどのようなことを聞く必要があるかわからない。ということで、ペアの相手から出てくる言葉を待ち続けるしかなかった。ふと語り出した言葉のポイントを注意深く反復させながら、この先でこの人はいま何を語ろうとしているのか、その先にどんな景色があるのだろうか。二人の間の景色(inter-view)を現出させられるよう、わたしにできることは言葉を待つことだけであった。

shibaura1029-28_2555(写真:冨田了平)

交互に言葉を聴き合ったあとは、再び一人となり、詩の創作に入る。インタビューの中でたくさんの言葉をメモはしていたが、無防備な白紙を前にすると、右往左往してしまった。言葉を埋めていくことで白の美しさが損なってしまわれるのではないかと怖れを感じていた。それでも、そうした重圧の中で試行錯誤し、詩を編んでいく。わたしは「詩を書く」という行為が無防備な白紙を汚してしまう怖れの意識を乗り越える強さが必要なのだと知った。いや、詩人はそういった重圧や乗り越えへの気負いは持たず、紙とペンと友達になるのだろうか。

shibaura1029-49_2608(写真:冨田了平)

詩を書き終えるべき時間がくると、それぞれがそれまで書いていた場所から戻ってきて、朗読の時間がはじまる。一人ひとり順々に、ペアの相手が選んだ写真を紹介し、ペアの相手に向かって詩を読んでいく。

詩を読みながら涙ぐむ人。朗読を聴きながらすすり泣く音。わたしは驚いた。わたしはそこまでの感動を想定してなかった。声にできていなかった声が声にされていった喜びか、それとも悲しみか。いや、そんな簡単に名付けることのできないような、深く複雑な想いや感覚が言葉にされて、ほどけていく際特有のカタルシスが起こったのだろうか。わたしも聴いていて思わず涙ぐみそうになり、思わず抵抗する。

shibaura1029-57_2621(写真:冨田了平)

そうして、順々に詩が読み上げられていき、わたしの番が来た。わたしも椅子から立ち上がり、呼吸を整え、読む。声が震える。慣れてくる。読み終わり、座る。ペアであったわたしの言葉に耳を傾け、詩を書いてくれた方の朗読もしんしんと聴いた。「あぁ、言ったなぁ」と自分の言葉が反復される安心感のようなものと「おー、そうなるのかぁ」とほどよい驚きとワクワク感を感じられる多声性を感じられるよい詩(うた)であった。

最後に詩人である上田さんも詩を読む。反復される言葉が力強く響く。そんな印象の残る朗読であった。あっという間に2時間のワークショップが終わった。

shibaura1029-63_2632

(写真:冨田了平)

2時間をまるっと振り返る。わたしにとって「覚醒の夢」であっただろうか。正直いうと、私自身がそれほど強烈な夢をみたわけではない。けれども、最後の朗読の際に声を震わせ、涙する人が一人や二人ではなかったことから、多くの参加者にとっては「覚醒の夢」の体験となったのだろうと推測される。

近年、どうにも、人の創造性が資本主義システムの中で位置付けられ(価値づけられ)、新規事業のアイデア創発やイノベーション促進のように扱われやすい印象を受ける。そして、そんな中で、精神疾患までには至らずとも、少なからず心に傷を負ったり、複雑で人に共有しづらい感情を一人で抱え込んでしまうような人が少なくないのではないだろうか。本ワークショップはそのような感情の治癒を結果的に引き起こしていたようにわたしには思える。
もし、本当の意味で、既存の世界からわたしたちが望んでいる世界へと、根本的な転換がなされるときがあるとすれば、それはいつだろうか。おそらく、非人間的な高速さでなされる「権力者の単純な交代」や「新製品の開発」による社会変革が起きたときではないだろう。もし、本当の意味で革命的出来事が起きるとすれば、それは「一人として同じ人間がいない」ということをわきまえた上で互いの感情一つひとつをともに言葉にしていく(共有していく)営みと、その営みを決して急がずに人間的な速度でおこなっていける文化をわたしたち自身が担っているときではないだろうか。もし、そうであるならば、わたしたちはまずもってそのような文化圏に身を投じることから始めるべきだろう。体験していない者に説明・実行は不可能である。そして、われわれはそこで、少しずつ、「覚醒の夢」をみる。