多様性と境界に関する対話と表現の研究所

アートカウンシル東京

【週報】排除と包摂、そして表現:3月に参加したイベントから

2016年03月28日

3月は、社会の多様性と境界、そして表現に関するイベントが目白押しでした。このようなイベントの多さや、連日のニュースなどからも、この領域に対する社会のまなざしが日増しに強くなっている状況を感じています。イベントの全てに足を運ぶことは出来なかったのですが、そのいくつかに参加して印象に残ったことを、つらつらと書いてみたいと思います。

まず、「東京境界線紀行2006→2016」フォーラムについて。
代表の長津が登壇したこのイベント、2006年に行われた「東京境界線紀行」というパフォーマンス公演を検証する内容でした。障害/健常、マイノリティ/マジョリティなどの境界線に問いを投げかけ、その線引きの行為を可視化する作品は、上演当時も物議を醸したといいます。それから10年の時を経て、「障害」と「表現」に関わる私たち、そして社会はどう変わったのか、変わっていないのか。加速する現在の状況のなかで、敢えて立ち止まり、真摯に考えようとする、凝縮した時間でした。
なかでも、アートとジェントリフィケーション(都市の「浄化」、「高級化」)についての議論が、とても印象に残りました。ジェントリフィケーションとは、都市の再開発や文化活動によって停滞した地域が活性化し、結果的に環境が向上することを指すそうです。しかし、このことは同時に、排除を生み出す可能性もある。アートと社会の関係や、社会におけるアートの役割が大きくクローズアップされる現在、私たちはソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)を装ったジェントリフィケーションに加担しているかもしれない、という議論。

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このことを聞きながら、3月に参加した二つの音楽イベントのことに思いを馳せました。一つは、「幻聴妄想かるた」の製作で知られる福祉施設「ハーモニー」の「ご近所コンサート」。そしてもう一つは、「音遊びの会」の10周年記念公演「ほんものの誕生」。どちらも素晴らしい内容でした。二つは、行われた場所も経緯も全く異なるものですが、「障害」と「表現」、そしてソーシャル・インクルージョンとジェントリフィケーションについて、同じ問いを投げかけているように思われました。
「ご近所コンサート」は、日頃からハーモニーとお付き合いのある色々な“ご近所”さんが参加して、メンバー・スタッフ・ご近所さんが互いに演奏を披露し合う、アットホームなコンサート。パフォーマンスへの参加を通じて(施設の)内と外とがつながり合い、その場を共にしていく様子は、幻聴や妄想の世界を他者と共有することを通じて、障害/健常、正常/異常、日常/非日常といった境界の曖昧さを体験する「幻聴妄想かるた」の、音楽活動版と言えるかもしれません。
一方、「ほんものの誕生」は、知的障害のある人とその家族、音楽家、音楽療法家が、「障害」とは何か、「表現」とは何かを巡る様々な問題や葛藤と向き合いながら活動を続けてきた「音遊びの会」が今辿りついた地点を、そのまま舞台化して見せるような公演でした。親子による即興デュオや、あるメンバーの小さな身振りや声から立ち上がった音楽が会場全体に満ちるグルーヴへと変容していく様子からは、単に「障害」/「健常」という線引きとは異なる境界線をいくつも揺り動かしながら、やがてその場全体の空気を変容させていくエネルギーを感じました。

ソーシャル・インクルージョンという点からこういった音楽イベントを見るとき、つい陥りがちなのは、「障害の有無や社会的立場の違いを越えて一つになる」感動といったもののように思われます。表現活動のなかでも、音楽はとりわけ「ユートピア」のような共生状態を創出するイメージがあるようにも思われます。しかし、そういった見方は、ソーシャル・インクルージョンを装ったジェントリフィケーションの一つの形態と見ることができるのではないでしょうか。
「ご近所コンサート」や「ほんものの誕生」、そして「東京境界線紀行」での議論を見れば明らかなように、実際にそこで起こっていることは、もっと複雑で、日常のなかに埋め込まれていて、排除と包摂の間を、揺れながら行ったり来たりしているのだと思います。それらを「なかったこと」にせず、「美しいもの」としてまつりあげることもしないで、社会のなかで生き延びる方法の一つとして捉えていくこと。これらのイベントは、そのことをあらためて考える機会となりました。

(三宅博子)