多様性と境界に関する対話と表現の研究所

アートカウンシル東京

【週報】 調査編:視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ

2016年02月10日

今年度、7件の調査を行ってきた、もやもやフィールドワーク調査編。
その調査先のひとつが「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」です。

今回は、その調査の一環としてお邪魔したワークショップのレポートと考えたことをつらつらと。

「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」は、「みえる」「みえない」に関わらず、会話しながら作品を鑑賞する活動。
作品についての「みえていること」と「みえていないこと」を言葉にしながら、一緒に作品に向かい合います。
特徴的なのは、そのナビゲーターが、視覚に障害のある人だということ。

今回参加したワークショップは、1グループ7人〜10人程度の構成。各グループに一人、ナビゲーターが入ります。
参加者にも、視覚に障害のある方や、聴覚に障害のある方等がいらっしゃることも。

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ワークショップ当日、美術館アトリウムにて、参加者顔合わせ。
代表の林建太さんより簡単な挨拶、趣旨説明、スタッフ紹介がありました。
ここで印象に残ったのは、林さんの<「みえていること」と「みえていないこと」。この2つを両方、言葉にしてほしい>という説明。

ここから、グループにわかれて、鑑賞スタート。
今日は「たぶん3つ、最低2つ以上は鑑賞します」とナビゲーター。
1時間半で、3つ。ふだんひとつの展覧会を1時間から1時間半程度でみていることを考えると、とてもゆっくりといえるかもしれません。

1作品目。
「不気味」「気持ち悪い」「きもかわいい」と口々に述べる参加者。
「どんな作品?絵ですか?写真ですか?」とナビゲーター。
「絵です」「女子中学生がいっぱいかかれている。一ツ目の女子中学生」「電車のボックス席に座っている」「荷台に、骸骨がある」など。時々、ナビゲーターが質問をします。
その質問を受けて、参加者が、さらに言葉を重ねます。
「死をイメージさせる」。「よくみたら、不思議な構図。普通の電車じゃない」。
なにが死をイメージさせるのか。
そこに描かれているモチーフが理由になっているのではないか。
会話は続きます。
ここで印象的だったのは、この作品の真ん中には、大きな球体のようなものが描かれていたのですが、これにすぐに言及する人がいなかったこと。面積的には、画面の大部分を占めるし、真ん中なのに、と不思議でした。
そのことについてほかの参加者に聞いてみると、女子中学生に目がいったから、
ほかの人と一緒にみることで、その人が、自分が、その作品になにをみているのかに気づかされます。

20分ほど経ったところで、次の作品へ。
こんどは、「壁一面に、四角いブリキの箱が並んでいる」作品でした。
さびたブリキの箱。それぞれの箱に、写真が貼られています。証明写真みたいな、白黒の写真。
上段には「イケアで買ったみたいな照明器具」が、等間隔でついています。
どのくらい大きいか。「壁いっぱい」「かなり大きい」。
写真は「ヨーロッパ人の写真。アジア系の人はいない」みたい。
途中、ひとりの参加者が「私、すごい発見しちゃったんだけど」と声をあげました。
「写真がついていない箱がある」。
それはどんな意味をもつのか。ああでもない、こうでもないと言い合います。
「死のイメージ」「さびているし、忘れられていた感じがする」「輪廻天生をイメージする。ひとつひとつの箱が、また地上に戻される」
ナビゲーターは、ここでも時折質問しながら、参加者の発言を聞いていました。

こんな感じで、鑑賞は続きます。
私が参加していたグループは、計4つの作品を鑑賞しました。
時間となり、展示室の外へ。
ほかのグループの到着を待つ間、ひとりずつ感想。
「すごくおもしろかった!」という人。「どういう感じか、全然イメージできなかったけど、参加してみたらとてもおもしろかった!」という人。
「8人でみて、8人それぞれの言葉、イマジネーションがおもしろいと思った」という人。自分もそう思う、とナビゲーター。

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ここまでが、ワークショップの簡単なレポート。
そして、今回参加して、改めて考えたことは以下(一部抜粋 笑)。

・なにが、おもしろい、楽しい、のか?
→参加者はみんな、おもしろかった、楽しかった、という。あの場のなにが、それを体感させるのか。
参加者にとって/ナビゲーターにとって/視覚に障害のある人にとって/ない人にとって

・ひとりでみるときとは違って、とか、いつもの美術鑑賞とはちがって
→「ひとりでする美術鑑賞」「いつもの美術鑑賞」とは、何がどう違うのか。鑑賞とは何か。

・みえないということ、みえるということ、みえているということ、みえていないということ、について
→視覚に障害のある人がナビゲーターになるということは、これらのことを、否応なく、あるいはとても自然な流れで、意識させられるということ。
それを意識させられたとき、露わになることは何か。

・「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」は、何を、つくっているのか
これについては、インタビューの際、林さんに質問してみました。
林さんの答えは「美術鑑賞の場をつくっている」とのこと。
明確な回答。まさにそのとおり。でも、それだけではないのだ、と私は思ってしまいます。

美術鑑賞の場をつくることで、つくろうとしているのは、
おそらくは、関係性が揺らぐ場。鑑賞をとおし、自らの見方に気づき、他者への見方、物事の見方が変わる。
気づいたら、他者との関係性や、日常の捉え方が変わっている。。そんな場、そこでの人々の経験なんじゃないかなあ。。
それは、小さな試みかもしれませんが、革命的な創造行為のように思います。
(インタビューについては、もっと書きたいこともたくさんあるのですが、長くなってしまうので、それはまた別の機会に)。

次回、2月25日報告と対話編第10回は、「共にみることー視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップに参加して」と題し、この「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」について考えたことを報告します。
が、こちらはすでに満席。キャンセル待ちのお申し込みも多数いただいている状況です(席に限りがあり、申し訳ありません)。

実は、報告と対話編はじまって以来の注目度といえるかもしれません。
このテーマへの関心の高さを実感しつつ、なぜこの活動に、いま、これだけの関心が集まっているのか。
これも、とても気になります。

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*写真は、林さんにインタビューさせていただいたときの様子。
個人的に、ずっと関心のあるテーマなので、今回改めてお話を伺え、とても嬉しかったです。

(井尻)