多様性と境界に関する対話と表現の研究所

アートカウンシル東京

【連載】フォーラム「対話は可能か?」を振り返る――トークセッション「共に生きるということ」②

2015年11月02日

9月4日〜6日に開催したフォーラム「対話は可能か?」の振り返り連載。
第3回目は、トークセッション「共に生きるということ」について、来場者の方にもレポートを書いて頂いています。
今回は、岩田祐佳梨さん(筑波大学大学院 人間総合科学研究科 博士後期課程)によるレポートです。

*本連載は、フォーラムを多様な視点から振り返るべく、各プログラムについて研究所メンバーと参加者それぞれのレポートを交互に掲載していきます。各プログラムはそれぞれにどのように経験されていたのか。あの場に身をおいた人は何を感じ、思考したのか。お楽しみいただければ幸いです。


「境界」と「共に生きる」
岩田祐佳梨(筑波大学大学院 人間総合科学研究科 博士後期課程)

shibaura-03_5577撮影:冨田了平

「フォーラム『対話は可能か?』に寄せて」で長津さんが触れていたように、私たちの生きる社会には様々な「境界」がある。この「境界」は普段から頻繁に使う言葉ではないが、今回のトークセッションで改めて考えさせられたキーワードだった。この「境界」に着目してレポートを書きたい。

トークセッションを通し、多種多様な取り組みをされているゲストの方々に共通していると感じたのが、何らかの「境界」に対して働きかけている方々だということだった。そして、ゲストが日々の実践のなかで目の当たりにしている「境界」には、二つの種類があるように思えた。一つは、心身が抱える障害や疾患の程度、ジェンダー、高齢による老いなどの私たち自身が持つ特性によって、引かれる「境界」である。もう一つは、患者と医者、生徒と先生、利用者と介護者、非アーティストとアーティストのように、ケア、教育、コミュニティ、アートプロジェクトなどの場を制度化して運営するためにつくられた、役割に伴う「境界」だと感じた。

私自身が病院でアートデザインプロジェクトのコーディネーターをしていることから、後者について実感する部分が大きいため、こちらに着目してゲストの実践内容について感想を述べたい。松嶋健が述べているように、「制度」は本来、私たちが何かをなすことを可能にする肯定的な規範だが、それが形骸化し硬直化すると制限的にしか働かなくなってしまう(※1)。そして「管理する/される」「ケアする/される」という対峙的な関係ができあがってしまうと、それはより強固な境界になってしまうのではないかと思う。こうした課題に対して、「元子おばちゃん家」では、元子おばちゃんこと長嶋元子さんがこれまでの幼稚園の「先生」という権威を持ってしまう役割を脱して「おばちゃん」としてふるまっていた。さらに加藤正裕さんの「井戸端げんき」では、井戸端に人々が自然に集まり自由にふるまうことが出来る場を運営していた。両者に共通しているのは、行政からの委託事業や介護制度を利用した「施設」でありながら、制度にあてはまらない状況や人々も柔軟に受け入れて運営していることである。
「芝の家」を運営する坂倉杏介さんがあげた「不確実性」や「偶発性」が重要なキーワードだと感じた。「元子おばちゃん家」や「井戸端げんき」においても、様々な人々が集まる上で生じる「不確実性」や「偶発性」を排除せず、許容するための運営体制がとられているように思えたからである。
ここでアートプロジェクトに関しても触れたいと思う。アートプロジェクトも時には「提供する/される」という関係になり、そこにははっきりとした境界が引かれることがある。これが良いか悪いかはここで述べることは出来ないが、地域やケアの現場でのアートプロジェクトにおいても「提供する/される」という関係が強く、アーティストとそこで生活を営む住民や利用者の間にはっきりとした「境界」を感じるプロジェクトもある。こうした状況に対して、高橋伸行さんの「旅地蔵」や吉川由美さんの「南三陸きりこプロジェクト」では、アーティストと受け手がいかにお互いの存在を尊重しながらクロスオーバーしていくかということが実践されているように思えた。それはこれらの作品やプロジェクトが、アーティスト自身の表現であることに加えて、そこに居る人たちの想いを具現化するものとしての表現であるためだと感じた。

shibaura-108_5756撮影:冨田了平

次にゲストの実践内容を聞いて、自身が関わっている活動について改めて考えたことを書きたいと思う。先ほども述べたように、私は病院でアートデザインプロジェクトを実践するために、医療者と芸術家やデザイナーをつなぎ、プロジェクトマネジメントを行うコーディネーターとして病院で勤務している。ここでの「境界」について考えてみると、医師や看護師など高度な専門知識を持つ医療従事者と患者とでは情報の格差も非常に大きく、医療従事者と患者の間にある「境界」は非常に強いものとなっている。また医療従事者同士でも、異なる職業間や多数の職員をまとめるための管理職と現場で働く職員の間などには「境界」が存在する。このように私たちが病気を治すために利用する病院には、様々な「境界」で構成されている。こうした様々な「境界」は医療制度や病院組織の必要性によって引かれたものである。
しかし時にこれらは、医療上のコミュニケーション、職員同士の連携、患者に必要な環境づくりを妨げることもある。そこでこれまでのアートデザインプロジェクトでは、患者や職員が立場を越えて創る喜びを共有できるようにと行なってきたワークショップ(※2)、職員が環境改善について自由に語ることができるようにと実施しているイベント(※3)など、一時的に「境界」を緩める試みや「境界」を浮き彫りにして捉え直す試みを行なってきたように思う。しかし課題として感じているのは、これらのプロジェクトは一時的なものであり、ゲストの実践内容のように恒久的な場にはなっていないということだ。本当は欲している人が欲している時に巡り会えるような、いつもオープンで不確実で創造的な場が病院内にも必要だと感じている。さらに私たちのプロジェクトは、職員と大学が議論を重ねて院内の空間改修や製品制作にも取り組んできたが、作り手と患者や職員など利用者の「境界」がはっきりと分かれているプロジェクトが多いこともまた課題だと感じている。もっと患者や職員が主役になるような作り手と使い手が融合するような場や、患者や職員の想いをかたちにする方法があるはずである。これらをいかに見出していくかを考えていきたい。

今回のトークセッションを聞き改めて考えたのは、私たちがこの社会で多様な人と「共に生きる」ためには、それだけ多様な「境界」と共存しなくてはいけないということだ。そのためには「境界」を否定して壊してしまうのではなく、それをより強く認識することや捉え直すことを通して「境界」と「共に生きる」ことを考えたいと思う。

最後になるが、「対話」というテーマを考えると、「対話は可能か?」というフォーラムのタイトルが、最初はあまりピンとこなかった。「どのような対話が可能か?」「対話はなにを可能にするか?」などであれば理解できるが、「対話は可能か?」という問いかけは難しく感じた。しかし様々なゲストのトークセッションを聞いていくうちに、このタイトルはむしろ多様なわたしたちが共に生きていくためには「対話しか可能ではない」と語っているように思えた。

shibaura-109_5759撮影:冨田了平

※1 松嶋健,:脱制度化/制度化,多賀茂,三脇泰生編,:医療環境を変える「制度を使った精神療法」の実践と思想, 京都大学出版,2008
※2 蓮見孝, 一ノ瀬彩, 岩田祐佳梨, 高嶋結, 玉井七恵, 貝島桃代:筑波大学附属病院におけるアートデザインによる医療支援活動, デザイン学研究, 研究発表大会概要集, 56号, pp.372-373, 2009
※3 長島明子:病院にうるおいを-職員の思いとアートをどうつなぐか, アートミーツケア学会編:アートミーツケア叢書1 病院のアート-医療現場の再生と未来, pp.160~174, 2014


連載「フォーラム「対話は可能か?」を振り返る」
☆フォーラム「対話は可能か?」についてはこちらから

[1]前夜祭「幻聴妄想かるた」大会① 長津結一郎
[2]前夜祭「幻聴妄想かるた」大会② 東濃誠
[3]トークセッション「共に生きるということ」① 井尻貴子
[4]トークセッション「共に生きるということ」② 岩田祐佳梨
[5]「Living Together × 東京迂回路研究」① 石橋鼓太郎
[6]「Living Together × 東京迂回路研究」② 岩川ありさ
[7]シンポジウム「対話は可能か」① 三宅博子
[8]シンポジウム「対話は可能か」② 沼田里衣