多様性と境界に関する対話と表現の研究所

アートカウンシル東京

【連載】フォーラム「対話は可能か?」を振り返る――前夜祭「幻聴妄想かるた」大会①

2015年10月11日

9月4日〜6日に開催したフォーラム「対話は可能か?」。本日から、1週間に1回のペースで、このフォーラムを振り返る連載を掲載したいと思います。
第1回目は、前夜祭「幻聴妄想かるた」大会について、代表の長津結一郎によるレポートです。

 


 

東京迂回路研究のフォーラム「対話は可能か?」の前夜祭として開催した「幻聴妄想かるた」大会。このフォーラムは、異なるものたち同士の「対話」という言葉をめぐって、「共に生きる」ことを体感するものとして企画されたが、もっとも体感にふさわしいプログラムとして幻聴妄想かるたを用いた企画が発案され、作者である世田谷区にある精神障害者就労継続支援B型事業所「ハーモニー」のみなさんによる全面的な協力のもと実施された。まずは、当日の風景を簡単に描写することから文章をはじめたい。

 

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撮影:冨田了平

 

司会をしていた私から事務的なアナウンスをしたあと、施設長の新澤さんをご紹介する。新澤さんには事業所の紹介をお願いしていたが、紹介もそこそこに、「妄想」とはそもそも何なのかということについて、精神保健福祉や歴史的な背景を踏まえたレクチャーが始まる。かるた大会を楽しみに来た超満員の来場者は、突然はじまったプレゼンテーションにどこか圧倒されている様子だ。続いて登場したのは、自らを統合失調症であると述べる益山さん。突然ご自身の恋愛遍歴を語り始めたと思ったら、自作の詩を披露し始める。配布された資料には、なぜか静岡県の超高層ビルのデータベースや、就職偏差値、平均年収などが書かれているが、それらには一切触れられない。どこまでが本気で、どこまでが妄想かはわからない。ただただ益山さんは、黙っていればいつまでも話していそうな雰囲気を醸し出す。来場者たちは、しだいに場の雰囲気もやわらいだのか、それとも場を理解しようとするのを諦めたのか、直感的な反応を示すようになってくる。

 

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撮影:冨田了平

 

そしていよいよかるた大会がはじまる。4〜5人のグループに分かれて、かるたが配られると、来場者の盛り上がりはピークに達した。新澤さん、益山さん、それにスタッフの富樫さんが読むかるたの札やその解説に一喜一憂する来場者たち。かるた大会で多く札を取った人には、なぜか益山さんの思い出の品々(1位の商品は、益山さんが好きな人にあげようと思ってあげられなかったぬいぐるみであった)などが贈呈され、とまどいの顔を見せる受賞者のみなさん。続いて「かるたを作ってみよう」コーナーでは、日常的に感じているみなさんの幻聴や妄想についてかるたを描いた。グループ内で発表をし、一番面白かったものを最後に全体で共有した。祖父が他界した時にふと聞こえたという幻聴「たましいランキング6位!」(作者は「おじいちゃん、意外とランキング高いのね…」と思ったという)、「うんしょうんしょと大きなコンタクトレンズを目に入れる」(作者は実際に、洗面器ほど大きなコンタクトレンズを目に入れる夢を見るという)など、それぞれの参加者の妄想が炸裂する————。

 

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撮影:冨田了平

 

幻聴妄想かるたは、ハーモニーのメンバーが、自分たちの幻聴や妄想の実態をかるたにしたものだ。2008年に自主制作がはじまり、医学書院より書籍として出版され大きな反響を呼んだ。現在は、幻聴妄想かるたに加え、かるたの札を一新した「新・幻聴妄想かるた」も販売され、幻聴や妄想だけではなく、精神障害のある人の日常の風景を描いた札も多数登場している。また最近では、コミュニケーションアプリの「LINE」で使用できるスタンプも発売するなど、好評を博している。市販されているかるたには、取り札や読み札に加え、かるたがつくられた背景と、ひとつひとつのかるたの解説が付録として付けられている。ひとつひとつのかるた自体が、誰かの人生の一コマや、あるひとときの幻聴や妄想に基づいているのだなということを実感できるものになっている。最近では幻聴妄想かるた大会が各地で開催されており、精神保健福祉や表現について扱う大学の授業で行われたり、美術館のイベントとして開催されるなど、活動の幅が広がりつつあるようだ。
精神障害者福祉の立場から考えると、幻聴や妄想は実際には存在しない作りだされたものであり、従来の治療ではその「非現実性」を理解してもらうことで病識を深めることが求められてきた。しかし最近では、浦河べてるの家を発端とした「当事者研究」などの取り組みを通じ、医師の言葉により定義づけられる症状だけでなく、自らが病に向き合い、自らの言葉で語る病のあり方に焦点が当たるようになってきたようだ。幻聴を「幻聴さん」と名付け、自らその不思議な体験を言葉にして語り合い、外に開くことで、病気を医療者ではなく自らの手に取り戻す試みを行っているのだ。

 

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撮影:冨田了平

 

私たちは企画を試みた際に、この幻聴妄想かるたに対して、シュールに笑いを楽しむものというだけではない、なにかを突き付けられるような思いを抱いていた。障害者ではない(かもしれない)自分にとって幻聴や妄想とは何なのか? そのかるたに笑う自分とはいかなる存在なのか? そして今回のイベントでは、そのような思いを来場者に体感してもらえると良いのでは、と考えていた。実際にイベントを行ってみたところ、自らにとっての幻聴や妄想がいかなるものか、そしてそれを大勢の人々の前で好評することによって得られる気づきは何か、という、どこか“もやもや”とした思いを抱かせる契機としてイベントが機能していたように思われた。しかもそれは、障害当事者運動などのように大文字の目的を言葉にしてシュプレヒコールのように伝えるのではなく、かるたというツールをもとにして「場」として共有し体感するような機会をつくったことで、一人ひとりによる多様な解釈を促しているようにも感じられた。
そして特筆すべきは、当日の来場者の雰囲気がとても熱気あふれるものであったことである。ある時は大声で笑い、ある時は真剣に耳を傾け、かるた取りには全力で取り組む。その姿はエンターテインメントとしての消費にも近い態度であったとも考えられる。しかしおそらく来場者たちは、イベントが終わり帰路につく中で、自らの描いたかるたを思い起こし、場を共にした人々それぞれの「幻聴」や「妄想」を思い起こしたことであろう。ある来場者はその後も、「私家版・幻聴妄想かるた」と称して、自分でかるたを作成しFacebook上で発表し続けたという。
その“もやもや”とした余韻は、プログラム全体を通じて、個々人の表現したい想いが発露されていたことも関係しているかもしれない。新澤さんは妄想についてのプレゼンテーションを行い、益山さんが自らの恋愛遍歴を語り、ハーモニーのメンバーたちの日常風景とそこにある幻聴や妄想が文字となってあらわれ、来場者はかるたを取ったり描いたりすることでテンションを上げる。個人から発せられる「妄想」の表現が「内輪」としての盛り上がりを生み出し、さらには場に居合わせた一人ひとりの「妄想」を誘発していたのではないだろうか。

 

撮影:冨田了平

撮影:冨田了平

 

後日、プログラム2「ライブ「Living Together × 東京迂回路研究」」・プログラム4「シンポジウム「対話は可能か?」」に出演した齋藤陽道さんが所属している障害者プロレス「ドッグレッグス」の興行に、ハーモニーのみなさんの姿を見つけた。ハーモニーの利用者2人がレスラーとして登場するという。アイドルを応援する時に使うようなうちわをお手製で作り、スタッフや利用者が観客席から見守っている。タッグマッチとして、障害者プロレス出場歴が長いレスラーたちに戦いを挑んだ結果、あえなく敗北。レスラーのうちの一人はリング上で鼻血を出してしまった。休憩に入り、新澤さんに「負けちゃいましたね。鼻血出してましたけど、大丈夫ですかね?」と話しかけると、「はい、自己決定ですから」と笑いながら答えたのが印象的だった。自分のことは自分で決める。そこでなにかを表現したときに、周りの人々が誘発される。そのような自己決定と相互行為の関係性に、あのかるた大会の雰囲気を思い起こす。そこで生み出された一人ひとりの「妄想」とそれらを下支えし、さらなる「妄想」を誘発するコミュニティに、改めて思いを馳せた。

(長津結一郎)


連載「フォーラム「対話は可能か?」を振り返る」
☆フォーラム「対話は可能か?」についてはこちらから

[1]前夜祭「幻聴妄想かるた」大会① 長津結一郎
[2]前夜祭「幻聴妄想かるた」大会② 東濃誠
[3]トークセッション「共に生きるということ」① 井尻貴子
[4]トークセッション「共に生きるということ」② 岩田祐佳梨
[5]「Living Together × 東京迂回路研究」① 石橋鼓太郎
[6]「Living Together × 東京迂回路研究」② 岩川ありさ
[7]シンポジウム「対話は可能か」① 三宅博子
[8]シンポジウム「対話は可能か」② 沼田里衣