多様性と境界に関する対話と表現の研究所

アートカウンシル東京

【週報】フォーラム「対話は可能か」告知開始

2015年07月13日

昨年の終わりごろから温め続けてきた、diver-sion渾身の一大イベント「東京迂回路研究フォーラム『対話は可能か』」。いよいよ、告知開始いたしました。

ここ何回かの研究所日誌に、「とある企画の打ち合わせで○○さんにおじゃましましたー」という記事をアップしていましたが、全ては、そう、このフォーラムのためのものでした。思わせぶりですみませんでした!

そんなわけで、今日は、WEBやメールによるご案内と、チラシの発送作業にいそしみました。
チラシ、カッコいいー! (絶賛自画自賛中)

20150709_161010 - コピー

今回のテーマは、「対話は可能か?」。これまでの活動で出会ってきた人々をつなぎ、さらに新たな出会いの場をひらきたいという思いから始まった、この企画。様々な境界を引き/引かれながら、すでに共に生きている、多様な「私たち」に、いかなる「対話」が可能なのか。この機会に、あらためて問いかけてみたいと思います。

すでに、「もやもやフィールドワーク報告編・第7回」や、ゲストの方々との打ち合わせでも、「対話」とは何かについて話す機会がありました。そこで印象に残っているのは、「対話」というものにまつわる、ある種の「うさんくささ」や「予定調和」、あるいは「断絶」についてです。たとえば、ワークショップを通して参加者といい関係が築けたと思う時、一方で、そんな自分のどこかに「うさんくさい」ものを感じることがある。また、「対話」を掲げることがすでに「対話が成り立つ」ことを前提としてはいないか、それは予定調和ではないのか、という問いかけ。あるいは、大きくうねりを増す現在の社会の流れのなかで、はるか対岸にいるかに思われる存在と、「対話」などということが果たして可能なのだろうか…?という思い。

一方で、そうであるからこそ私たちは、誰かや何かに向かって「対話」を希求するのかもしれない。「living together : 私たちは、すでに共に生きている」という言葉が示すように、沈黙、断絶、予定調和――どのようなものであれ、そこにはすでに「対話」が交わされているのかもしれないとも思います。「聴こえているのに、まだ聴かれていない声」が響き合うようなフォーラムになればうれしいです。

皆様のご来場をお待ちしています!

(三宅博子)